(平和版) 


  広島地区一覧へ戻る  広島の水場を守る会  宇根利枝さんのページ 

原爆献水とは  ヒロシマの原爆献水のあるべき姿 水琴窟とは  


    '08原爆献水 お礼とご報告  '08水琴窟に注ぐ原爆献水  '08滝に打たれる自然体験(平和祈願)

     '07原爆献水 お礼とご報告

     '06原爆献水 お礼とご報告


ヒロシマの原爆献水

水を求めて亡くなられた多くの原爆犠牲者を慰霊するため、慰霊碑やお墓にきれいな水を捧げることです。

一言で原爆献水といっても、3つの流れがあるように思います。

1、遺族が個々に慰霊碑に水を供えている「献水」。

2、広島市主催で、平和祈念式典の前に行われる「献水」

そして新しく提唱しているのが、第3の流れで、

3、広島の水場を守る会やこころある人が、市民ならびに世界に呼び掛けて名水を供える献水。

広島の水場を守る会では、いつとはなしに「原爆献水」と呼ぶようになりました。

つまり、3つの流れがあっても、世間では区別することなく「献水」といいます。

広島市主催の「献水」では、湧水等の名称を「原爆死没者に捧げる清水」としています。新名水百選への応募においてもその呼称を使っています。

錦川鯉は、これら1、2、3、を総称して「原爆献水」と呼んできました。それは、宇根さんの取材を重ねる中で、この言葉を常に聞かされ、簡潔で分かりやすい呼称だったからです。この言葉は、もともと原爆語り部の宇根利枝さんが最初に発した言葉であるようです。宇根利枝さんは語り部としての活動の中で、一般的な「献水」ではなく、原爆で亡くなられた人への供え水だということで「原爆献水」という言葉を意識的に使ってきました。また、市内の慰霊碑には、宇根さんのオリジナルであるガラスコップが置かれています。そのコップにも「原爆献水供養」と文字が刻まれています。そして、国際学院大学佐々木健教授も、著書「広島中国路水紀行」「広島県の名水」の中や、講演会などで「原爆献水」という言葉を使い水質保全と平和への祈りを呼びかけています。

「献水」というのは、最初は遺族により個々に行われていたものですが、1974年(昭和49年)に、広島市主催の「献水」が、毎年8月6日に行われるようになりました。

(当時の広島市市長(山田市長)が長崎の式典に参列し「献水」を見られたのがきっかけとなり、ヒロシマの平和祈念式典でも「献水」を取り入れました。)

広島市主催の「献水」は、広島市近郊16ケ所の水を集め、8月6日の平和祈念式典前(早朝)に遺族や地区の代表により、真新しい青い竹桶に注がれた名水が、平和公園の慰霊碑前に捧げられます。当初は、近郊10ヶ所の由緒ある名水をということでしたが、現在は下記の16ケ所の名水が選定されています。

             

ヒロシマの原爆献水のあるべき姿(提案)

原爆献水は、尊い供え水です。地域で保全活動をし、普段でも、お茶でも飲めるような状態が望ましいと思います。

2007年原爆献水一覧表(広島市の「献水」の資料に名水名を入れて書き直しました。)

  場所           名水名       水の種類  搬入者


1.東区牛田新町牛田浄水場内 神田神社手水鉢   浄水   東区役所

2.東区牛田新町4丁目10 天水         湧水   東区役所

3.東区温品8丁目 清水谷神社滝水        滝水   東区役所

4.西区田方、霊泉寺名水        ボーリング井水   西区役所

5.西区三滝山 三滝寺幽明の滝          滝水   西区役所

6.安佐南区上安町 荒谷山沢水          沢水   安佐南区役所

7.安佐南区緑井町権現山、毘沙門天手水鉢     山水   安佐南区役所

8.安佐南区沼田町上奥畑 窓が山沢水       沢水   安佐南区役所

9.安佐北区安佐町大字小河内 小河内湧水     湧水   安佐北区役所

10.安佐北区可部町 福王寺金仙水         湧水   安佐北区役所

11.安佐北区深川4丁目 薬師霊泉         湧水   安佐北区役所

12.安佐北区白木町大字秋山 枡ヶ谷冷泉      冷泉   安佐北区役所

13.安芸区矢野西5丁目 尾崎神社八幡水      井水   安芸区役所

14.安芸区阿戸町 景浦名水            山水   安芸区役所

15.佐伯区五日市町屋代、龍神釜水二の釜   おう穴に溜る滝水   佐伯区役所

16.西区己斐上町 滝の観音の滝水         滝水   谷 安啓さん

17.南区似島 清水の窪の水(旧陸軍検疫所跡)   井水   似島社会福祉協議会

☆原爆献水に選定された各水場の解説

(主に(C)錦川鯉の名水賛歌VOL2より加筆し編集)

原爆献水1 

牛田浄水場

(うしたじょうすいじょう)

東区牛田新町1丁目8-1

浄水場敷地内にある

神田神社分社の手水鉢

 室町時代の広島の太田川の河口は、まだ土砂の堆積があまりなく、潮の干潟(砂州)が安佐南区あたりまで広がっており、干潮を待って歩いたり、渡し船で往来したものと考えられます。1500年代頃から、陸地として姿を現しはじめ、1599年、毛利輝元の広島城築城以降、城下町として急速に発展していきます。

 当時から、水道が引かれるまでの間に、広島に暮らした人々は、水に対して大変な苦労をしていました。 広島はデルタ上にできた街なので、井戸を掘っても塩気があるため、良質な地下水が少なく、人々のほとんどは川の水を直接飲み水にしており、明治時代になると、この水が様々な病気(コレラや赤痢)の原因ともなり、庶民の生活を脅かしていました。

 太田川は、様々な恵みを与えてくれましたが、一方では、たびたび氾濫する太田川の水の脅威があり、洪水被害をもたらし続けてきました。広島藩の時代から、時の権力者は、治水工事、護岸工事、橋の架け替えを繰り返えしてきました。城下町では、幾度も大火災が起こり、防火用水も必要でした。

そこで計画された広島市の水道施設は、天皇の勅令により軍用の水道工事として計画され、同時に市民用の水道工事が行われました。そして、1898年(明治31年)牛田浄水場の通水式が行われました。(全国で5番目と、比較的早く水道が引かれたのは、戦争への準備だったわけです)

 その勅令の公布を実現させたのは、当時の首相・伊藤博文と陸軍中将・児玉源太郎でした。牛田浄水場敷地内には、伊藤博文が書いた「深仁厚澤(しんじんこうたく)」と児玉源太郎の書いた「不舎晝夜(ちゅうやをおかず)」の石碑が残っています。

 広島(広島市と安芸郡府中町、坂町)で1日に使われる総水量(事業所と各家庭で使用される総水量)は、約42万m3で、広島市民球場に溜めるとすると、約1杯分になります。それを1人が1日に使う水の量に換算すると、約250リットルになります。

 牛田浄水場は、太田川の広島型花崗岩の大地に磨かれた、まろやかで甘い軟水の水を市民に供給しています。それは、114万人の広島市民の生活に欠かせない、大切な水です。

広島市民114万人を支える太田川の水です。浄水場敷地内にある神田神社分社の手水鉢の水を原爆献水として捧げます。(神田神社は牛田村の氏神様として牛田地区の村民等によって祭られていたもので、1889年(明治22年)神領地が旧陸軍省の用地となり、神田神社(本社)は宇品へ移転し現在に至り、分社が牛田浄水場に残っています。神田山という地名も、神田神社に参拝するために架けられた神田橋も、どちらも神田神社に由来している)

◇原爆投下後の牛田浄水場

原爆投下後、火傷を負った水道局職員の堀野九郎さんは、停電で送水が止った牛田浄水場に駆けつけ、壊れたポンプを必死に修理し、午後2時ごろ給水を再開したそうです。(広島市水道局HPより http://www.water.city.hiroshima.jp/story/history/thema1.html)

戸坂城山小学校HPの戸坂の歴史「第6章 原爆と戸坂」「第7章 水源地、戸坂」に、牛田浄水場のことが記されています。

◇太田川源流の森保全活動

 広島市水道局は、水道創設100周年を記念し、太田川源流域にあたる佐伯郡吉和村に、太田川源流の森(水源かん養林、面積355ha、広島県佐伯郡吉和村字吉和東1588番・1589番3)を取得し、水源かん養の重要性を啓発する活動に取り組んでいます。

(C)錦川鯉の名水賛歌VOL2より加筆し編集

原爆献水2

天水(あまず)

東区牛田新町4丁目10-1

芸藩通志にその名が記されています。牛田不動院(元、安国寺)の敷地の北端にあった西国街道沿いの名水として有名でした。「梅川清水」「甘津水(あまづみず)」とも呼ばれていました。

甘津水というのは当て字であろうと思います。本来の読みは「天津水(あまつみず)」で、「天の真名井(あめのまない)」と同義語で、雨の古語だと思われます。

俳句や和歌などでは、「天津水(あまつみず)」というのは、「仰ぎて待つ」の枕詞で使われます。

「緑児の乳ち乞ふがごとく天津水仰ぎてそ待つ」(万葉集巻第十八)、「天つ水 仰(あふ)ぎてそ待つ あしひきの 山のたをりに」(万葉集巻第十八)、「大船の思ひたのみて天津水仰ぎて待つに」(万葉集巻第二)など

また、雨乞いの祝詞の中でも使われる。

◇神話の中の「天の真名井(まなゐ)」とは

天照とスサノヲによる高天原での誓約(ウケヒ)の場面

 アマテラスはスサノオの剣を借りて三つに折って、天の真名井で振りすすいで、よく噛んで霧を吹き出した。その霧から3柱の女神が生まれた。

 スサノオはアマテラスが身に付けていた玉を貰い受けて、天の真名井で振りすすいで、よく噛んで霧を吹き出した。その霧から5柱の男神が生まれた。

 五柱の男神を生んだスサノオは自らの潔白を証明した(『古事記』ではスサノオの持ち物から女神が生まれたことで、自らの潔白を主張した)。

この誓約には、なぜ、「天の真名井」の聖なる水が必要だったのでしょうか。おそらく、清浄な水で浄めたら、三柱の女神、五柱の男神が誕生したということをいいたかったのではないでしょうか。

古事記、日本書紀、風土記にみられる天の真名井(真奈井、真那井とも書く)や御井が、記述に残る日本最初の名水名と考えていいと思います。現代語である「名水」という言葉では記されていませんが、7世紀には、すでに名水が存在していたことになり、その後、仏教の伝来とともに仏閣などに閼伽井(仏様への御供水)が掘られ、行基水や弘法水などの名僧にまつわる水へと広がっていきます(日本文理大学:河野忠説、弘法由来の水を研究されています。)

鳥取県米子市淀江町に全国名水百選「天の真名井」、宮崎県高千穂町に「真名井の滝」、島根県出雲市に「天の真名井」、大阪府富田林に市真名井古墳などなど、、、、各地に「天の真名井」があります。

神話に登場する「天の真名井」は、現在の何県のどこの場所にあたるかは、特定できません。天の真名井の本来の意味は、雨の古語で、最善たる、上善たる、至上の世界からの恵みである雨のことをいうのであって、特定の井戸(湧水)の敬称として使われるのはその後の事です。御井(みい、御生)にしても、本来の意味は、天皇あるいは、神様が産湯に使った池や井戸をいうのであり、それが、特定の井戸(湧水)の敬称として使われるのはその後の事です。

天の真名井(米子市淀江町)その他全国にあるこの名の井戸は、「雨」という名の井戸(水の湧き出し口)ということになります。つまり神話に伝わる井戸の最高の敬称を名にいただいたことになります。つまり神話の里は「天の真名井があるから淀江町である」「真名井の滝」があるから高千穂町である」「天の真名井があるから出雲である」と特定はできない訳です。

御井神社(奥出雲市揖屋)も、稚児ヶ池(島根県三井野原)も、同様です。神話に伝わる井戸の最高の敬称を名にいただいたことになります。それゆえに、「神話の里は、三井野原の稚児ヶ池である」と特定はできない訳です。

◇保全活動

町内会で管理され、水場保全のための清掃活動がされています。近所に昔から住む古老Yさんが大切にしてきた水場であったが、亡くなられて以降、しばらく水場は見捨てられ荒れていた。1995年頃であろうか?原爆献水を汲みに来た宇根利枝さんと近所の大工Tさんとで建築費用を分担し東屋を建立。宇根さんが残した名言「水は命」という立看板が立つ。

◇安国寺の閼伽井について

工事中

(C)錦川鯉の名水賛歌VOL2、VOL5より加筆し編集

清水谷神社の滝水

原爆献水3 諸病を治し、飲用すれば、長寿を保つと社伝に記されています。あせもにも効くと評判でした。

東区温品8丁目

×滝閉
霊泉寺名水

原爆献水4 (れいせんじ) 「斎神」「山田の霊水」などとも呼ばれ、腐りにくい水で、万病に効く霊泉として、よく知られていました。

西区田方

三滝寺幽明の滝水

原爆献水5 (みたきでら) 弘法大師開創といわれており、あの日、被爆した人々が、三滝の霊験あらたかな水を求め、逃れてきました。幽明の滝水を原爆献水として捧げます。

西区三滝町、三滝寺

荒谷山の沢水

元原爆献水、金ヶ迫清水

原爆献水6 (あらたにやま) 金ヶ迫清水(相田湧水)が、団地開発で汚染が進んだので、かわりに、荒谷山5合目付近のきれいな沢水を献水するようになりました。

安佐南区上安、荒谷山中腹

毘沙門天の湧水

原爆献水7 (びしゃもんてん) 虎の石彫の手水鉢には、本堂裏山、つまり権現山からの山水が引かれています。

安佐南区緑井、権現山中腹

窓が山沢水

元原爆献水

沼田大塚観音堂観帰園

原爆献水8 原爆献水が始まった頃は、沼田大塚観音堂観帰園の湧水を捧げていましたが、1994年かより、窓が山の沢水に変更されました。

安佐南区沼田町上奥畑、窓が山中腹

小河内の湧水

原爆献水9 (おがうち) 牛頭山からの伏流水が、岩から湧水しています。この水で入れる、お茶や珈琲がおいしいと評判です。

安佐北区安佐町小河内

福王寺金仙水

原爆献水10 (ふくおうじ、きんせんすい) 811年弘法大師開基の寺です。大師堂近くにある金仙水は、加持祈祷に用いる加持水(かじすい)です。

安佐北区可部町

薬師霊水

原爆献水11 昔は、薬師霊水までが、明光寺の境内でした。弘法大師が薬師如来像を掘った際に、体を浄めた霊泉といわれ、眼病に効くといわれています。毛利元就の祈願所としても知られることから茶の湯にも使った可能性が高い。安佐南区では、毎年8月6日の平和祈念式典に、自治会長Yさんなどを代表にして、原爆献水としてここの水を供えてきた。

2009.1.由来を広めたいと、地元有志によって新しく社が立てられた。もともとあった2体の地蔵と新しい地蔵をならべて祀った。

安佐北区深川4丁目、久都内邸側   

左写真は、2003年頃撮影。

×
枡ヵ谷冷泉

原爆献水12 (ますがたにれいせん)「湯場」(ゆば)ともいわれ、湯治場がありました。浅野の殿様もここに湯治にきたといわれています。三角の凹みに子どもを浸けるとあせもが治ったといわれています。この凹みの水を、きれいにすれば、下から水が湧き出てくるので、それを原爆献水にしています。

安佐北区白木町大字秋山、藤井末人所有の山

尾崎神社八幡水

原爆献水13 (はちまんみず)海岸沿いにもかかわらず、この井戸には、真水が湧いていました。西側参道沿いにある八幡水を原爆献水として捧げています。

安芸区矢野西5丁目

景浦名水

原爆献水14 (かげうら) 森の懐から、湧き出る山水は涸れたことがありません。

安芸区阿戸町

茶臼山水

元原爆献水15 (ちゃうすやますい) 1985年頃地下36mのボーリング井戸を掘り、一般に開放しました。 腐りにくい性質の超軟水の良い水です。

佐伯区城山2丁目30、茶臼山やすらぎ園

龍神釜水二の釜

原爆献水15 大化の改新前からの安芸の国最大の雨乞いの聖地でした。原爆献水としては、1992年以来、茶臼山水に変更されていましたが、2005.6.1に、66年ぶりに貴船神社の雨乞い神事が復活したのをきっかけに、2005.8.6は、龍神釜水を原爆献水にすることが決まりました。

佐伯区五日市町三宅〜屋代、通称:地獄谷

おうけつ
滝の観音

原爆献水16 (たきのかんのん) 原爆語り部の宇根利枝さんは、この滝に打たれ、身を清め、近郊の慰霊碑を廻り、名水を供え、献水供養をしています。8月6日は、宇根さんの活動の原点となった、この滝の水を捧げます。2004年の平和祈念式典からは、谷 安啓(たにやすひろ)さんが、宇根さんの志を継承して、原爆献水をおこないます。

西区己斐上5丁目、教順寺 己斐滝の観音

似島・
清水の窪の井水





原爆献水17 
似島臨海少年自然の家キャンプ場(旧陸軍第二検疫所跡)清水の窪の水
似島の水が献水に入ってなかいことに気付き、2005年から毎年、広島市に原爆献水に選定するように資料を送り提言を続けてきたが、その都度却下されてきた。2011年やっと願いが届き、旧陸軍第二検疫所の水が井戸水が慰霊碑に供えられた。
原爆投下後広島市内の病院の多くが被災したので、軍医・看護婦がいた似島に臨時救護所が置かれ、約1万人以上の負傷者が、船で運ぎ込まれた。その救護活動には、清水の窪の水が使われた。この水が末期の水となり亡くなられた方もおられたし、この水のおかげで命拾いした方もおられたでしょう。 by錦川鯉
広島の水場を守る会

08滝に打たれる自然体験

広島市主催「献水」が行われる、8月6日の早朝4:30から、己斐滝の観音で滝に打たれる体験をします。 原爆語り部の宇根利枝さんから原爆献水を継承した谷 安啓さんが、この日この時間に滝に打たれます。
広島の水場を守る会会員も平和祈念公園に被爆水琴窟に注ぐ原爆献水を行ったり、滝に打たれ平和祈願したりしています。
「原爆献水17ヶ所について」というテーマでの講演会活動・写真展も毎年行っています。

参加希望者・問い合わせ
広島市安佐北区あさひが丘6丁目15-27
電話082-521-4397 090-1681-8784
広島の水場を守る会事務局 担当:錦川鯉・中村一夫

 ☆原爆献水16ヶ所のうち9ヶ所の水場が、全国名水百選・太田川中流域にあります。

太田川中流域における名水水汲み場地図

太田川中流域についての解説(錦川鯉講演、2006.9.3武田山にて)

地図(太田川中流域水汲み場)をダウンロード(PDF形式425KB)




  広島地区一覧へ戻る  広島の水場を守る会  宇根利枝さんのページ 

原爆献水とは  ヒロシマの原爆献水のあるべき姿 水琴窟とは  


    '08原爆献水 お礼とご報告  '08水琴窟に注ぐ原爆献水  '08滝に打たれる自然体験(平和祈願)

     '07原爆献水 お礼とご報告

     '06原爆献水 お礼とご報告


無断転載、無断複製

Copyright(c)2002. 錦川鯉 All rights reserved.